ラベル 尺八史関連 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 尺八史関連 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年3月15日日曜日

ままの川

「僕もYouTubeで喋ったりとかしてみようかな…」とか書きましたが、やはり動画で喋るのは性に合わないようで、有言不実行になってしまいました。ただ、最近言いたいことはコメント欄に書きましたので、興味があられましたらそちらをご覧いただけますとありがたいです。
動画はいつもの通り、普通に演奏動画です。

【コメント】
「尺八は滅びた」「三曲は衰退するばかりだ」等の話が世間を飛び交っていますが、そういう現代だからこそ、三曲の楽しみ方をもう一度考え直しませんか?固定観念にとらわれていませんか?「先生が『うん』と言わないと演奏会もできない」「ちゃんとした会場で演奏会をしないといけない」「お付き合いのある社中の方でないと共演できない」。そんな『壁』を取り払える方法の一つに「動画による演奏公開」があると、僕は思っています。

演奏動画は、生演奏ではありません。聴こえてくる音もマイクとスピーカーを経由したものだし、「演奏家の息遣いが聴こえてくる」などといいますが、所謂「臨場感」を感じるのは難しいです。奏者にも演奏中は聴き手の様子が伝わって来るわけではないので、一方通行のコミュニケーションのように感じるかもしれません。しかし、その「最大の欠点」を除けば、動画にはいいことばかりです。
・時空を超えて、自分の演奏している地域からはるか離れたところにいる人に、未来に渡って演奏を届けることができる。
・「集客」「チケット」「会場」等の呪縛から解放される。特にマイナージャンルである邦楽にとって「集客」は頭の痛い問題ですが、「なんとか集めてきた人々」ではなく「本当にその演奏を求めている人」に直接届けることが可能となります。もちろん、様々な社会情勢や疫病、災害等で、「演奏会をキャンセル」のようになることもありません。
・工夫すれば、「他地域の同志」と「動画上で共演」したりもできる。
・インターネット、SNS等で紹介してもらい、広めてもらうこともできる。それがきっかけで、新しい仲間が増えたりもする。
今考え付いたものを並べただけで、本当はもっとたくさんの利点があるかもしれません。

僕は「生演奏」を否定したり、「もうやらない」と言っているわけではありません。また、演奏会自体が活況を呈することの方が理想的だとも思います。ただ、冒頭のような嘆きがあちらこちらから聞こえてくるということは、中々現状上手くいってないということに間違いないでしょう。ネットやSNSといった新しいコミュニケーションが普及した今、それを使わない手はありませんよね。すでに洋楽器(ロックやポップスでも、クラシックでも)ではたくさんの演奏動画・レッスン動画が出回っており、感動的なものも多いです。その洋楽の世界でも、楽器が売れなくて、あの有名ギターメーカー「Gibson」が経営破綻しているのです。邦楽は「滅びようとしている」ならなおさら、新しい可能性を探り、色々試していくことが急務なのではないでしょうか。

正直、大正~昭和の頃の、三曲全盛期のように戻るとは、到底思えません。あの頃は情報も限られていて「楽しみ」の数が少なかったし、「教養はステイタス」「女性は特にいざという時のための『芸は身を助ける』を備えたい」など、今にはない社会的な理由がありました。だからこそ、「教授産業」スタイルによって成立した、一般大衆に良さがわかりにくい楽曲なのに、「正直、あまり良さは解らないんだけど、まあ師範免状は欲しいし、それを持っていたら立派だから、難しい曲までがんばろう」などとなったんだと思います。

僕は、「音楽として」尺八本曲や地歌箏曲が好きだし、かっこよくて感動的な芸術だと思います。だからこそ、それをわかってくれる人に演奏を届けたい。旧来のしがらみは、そうした純粋な気持ちや行動を制限する可能性が高いものであり、そのことに気づいていない人があまりにも多いように思います。僕自身、伝統的な師弟関係や社中のシステムの中で修行を積み、技を教えて頂いた人間ですし、そのことへの感謝は忘れていないつもりです。しかし、その僕でさえも(5年前の自分なら、こういう変化を自分自身が遂げようとは夢にも思わなかった)こうした取り組みをどんどんやるようになるくらい、時代は変わったということができるように思います。今回、地歌箏曲「ままの川」という曲を吹いてみました。「いやぁ~、わかっとらんねぇ~、地歌は『歌』が主役だよ。尺八は『伴奏』なの。そんな本末転倒なのをアップなんてねぇ」とか言ってる方がナンセンスなのかもしれませんよ。それほど、「固定観念」の塊の世界だということ、だから音楽が良くても(元々一般人にはわかりにくくできてるんだけど)人が新しく入ってこないんですよね。「いや、私のところは入門者が来とるよ」とかではなく、全国的に見るといかに新たに始める人が少ないかは、目をそらさないべきだと思います。

あれこれ書きましたが、そんな思いで活動しておりますので、もし聴いていただき、気に入っていただけましたら、他の動画をご視聴頂いたり、またアップした時にはご覧頂いたり、チャンネル登録・ネットやSNS等でご紹介して頂けますとありがたいです。ホームページやブログ、Facebookなどもやっております。今後とも、どうぞ宜しくお願い致します。

琴古流尺八奏者 山口 翔


2018年10月29日月曜日

『二十四の瞳』

原作の『二十四の瞳』を読んでみました。



「読書感想文」というのは個人的にあまり好きではないのですが、尺八曲「ひとみ」が使用されたというシーンを中心に、若干所感を述べてみたいと思います。

主人公の大石先生が師範学校を出て、本村から8キロ離れた岬の村にある分教場で1年生の担任として赴任するところから物語は始まりますが、「ひとみ」のシーンはそれから18年後の最終章、世の中が戦争に突入し、その時の教え子の男子は次々に出征・戦死、大石先生自身も夫や母、3番目の子どもを戦争で失い、戦後になって何とか暮らしを立てて行くために、再び臨時教員として岬の村に赴任するんですね。そして、教え子たちの墓に参る。世の中が荒れ果てて、満足な墓石や、花を手向ける人もいない。そういう悲惨さが描かれていました。「この曲はそういう悲しさを表現しなければならない」という話がFacebook上でもありましたが、その意味がよく分かりました。

小説そのものは、書かれた時期が戦後すぐで、プロレタリア文学の要素も含まれており、作品の全ての表現や思想等に完全に共感できるかというと、それはまたちょっと違いました。自分自身教職員ではありますが、かなり「らしくない」教員だから、余計そう感じるのかもしれません。ただ、作者自身が、戦時中という激動の時代を生き抜き、肌身で感じた辛さ・悲惨さがこの作品を成り立たせているのは大いに感じられました。そして、戦前〜戦時中の、特に地方部の貧困や思想的な統制の悲惨さは、現代人である自分からして察するに余りあるものでありました。最近の戦時中を描いた映画や小説は、かなりそういう要素が薄まってきているように思います。それはもはや「戦時中」が確実に風化してきていて、戦時中のことを実感を伴って分かっていない世代が作品を生み出しているからでしょう。そういう意味で、『二十四の瞳』のような、戦時中を生きた人自身の「生の声」が聞ける作品に接するというのは、大切なことかもしれないと思いました。


話題がガラッと変わりますが、最近、15年来の「活字離れ」からようやく脱出?しました。僕の活字離れが始まったのは、大学卒業後、パソコンやネットにハマってからです。パソコンそのものの楽しさとともに、ネットは「何でも情報を瞬時に得られる」かのような「万能感」を僕に感じさせました。かつて読書していたような時間帯も、全てMac(のちにiPhone)に向かうようになりました。

しかし、以前も話題にしましたが、ネットって「何でも調べられ」そうでいて、結局は自分の好みで見るページが決まるので、毎回似たようなページをグルグルしてるんですよね。で、暇ができたり、なんか気分を変えたりしたくなると、またスマホで似たようなページをグルグルしてしまう。その結果、脳内の使用部分が固着してくる…。僕の場合はそういう循環になりがちです。

それに対して、やはり活字の印刷物というのは手触りや見た目にもアナログな質感があり、そして本を読んでいる最中も「データ」「情報」としてだけでなく、「文章を味わえる」感が強いような気がします。人間の五感に直接訴えるものが強いんですかね。そういう要素は、クルマのエンジンをかけるとクランクシャフトやカム、ギアなんかが駆動して伝わってくる振動や音、楽器を演奏する時の楽器の材質からダイレクトに空気の振動に変換される感覚なんかとも似ている気がします。また、文学作品を通じて、自分自身でネット検索するのとはまた全然違った、筆者の思想や教養に触れることができ、読み終わった時の自分の中の蓄積の質が異なっているような気がします。最近では漱石の『猫』なんかでそういう感触がありました。

iPhone自体も好きで、ネットをしなくなった訳ではないんですが、最近はなるべく「スマホをしたくなったら読書」にしています。

2018年10月15日月曜日

堀井小次朗作曲「ひとみ」(映画『二十四の瞳』挿入曲)

10月5日、Facebookでお知り合いの中国の尺八愛好家、唐言周子さんの投稿をシェアさせて頂いたご縁で、堀井小次朗作曲「ひとみ」に挑戦する機会を得ました。


実はその前日、スペインの尺八奏者、 Rodrigo Rodriguez さんが投稿された、「二十四の瞳」の演奏動画を拝見したのです。



連続して翌日の唐言さんの投稿で、ご縁を感じ、まずは琴古譜を作成しました。






譜面作成にあたっては、関西在住のとある琴古流尺八家から資料を見せて頂きました。この場をお借りして御礼申し上げます。さらに、その後も、Facebook上でたくさんの方が、ご自身の習われた譜面を公開して下さったり、曲に対する熱いコメントを書き込んで下さったりしました。僕の知らなかったこの曲が、こんなにもたくさんの尺八奏者に愛されていたということに、驚きました。

というのも「二十四の瞳」は、日本の有名な映画の一つだといえると思いますが、その音楽に尺八が使われていたこと、そして作曲が堀井小次朗師であること自体を初めて知ったのです。
しかも、それを知ったのが、海外のお二人の尺八家のおかげだというのも、とても印象深いことでした。

七孔尺八らしい音の滑らかなつながりや、民謡のような装飾音の入り方が、僕としてはとても新鮮です(自分は5孔で演奏しましたが)。「尺八本曲」「地歌箏曲」以外に、中々「日本の魂」を感じることができる尺八独奏曲を見つけることができなかった自分にとって、この楽曲はとてもインパクトがある作品でした。

琴古流にはない、流れるような連続音や、転ぶような装飾音の連続が印象的です。

いつも同じところばかり使っている脳の回路が、新鮮な刺激を受けています。


2018年8月4日土曜日

10分で琴古流本曲(番外編)「虚空鈴慕」

昨年度末に完結した「10分で~」シリーズですが、この夏、「久しぶりに虚空鈴慕が吹いてみたいな」と思い、そういえば「10分で~」シリーズでは本手だけの形で「虚空鈴慕」を公開していない(本手・替手の多重録画、ライブ演奏版はあり)ことを思い出し、急遽紋付を着て撮影してみました。(H30夏の酷暑の中、エアコンを最低温度の「17度」に設定して袷の紋付に身を包みました。)

「霧海篪鈴慕」の解説でも申し上げましたが、尺八本曲は、禅宗の一派とされる普化宗(ふけしゅう)の虚無僧たちの宗教音楽であり、この曲は、尺八本曲中、もっとも格式高い曲として扱われる「古伝三曲」の2曲目となります。

『虚鐸伝記』と呼ばれる普化宗の伝来記によれば、我が国に普化尺八をもたらした禅僧・覚心の高弟である寄竹(虚竹禅師)が、修行行脚中、伊勢の朝熊(あさま)山の虚空蔵堂にて、夢の中で聞いた妙音をもとに作った曲とのことです。その時、霧のたちこめる海上かなたから聞こえてきた曲を「霧海篪(むかいぢ)」、霧が晴れわたった空から聞こえてきた曲を「虚空(こくう)」と名付け、尺八最古の曲「虚霊」と合わせて「古伝三曲」として別格に扱われるようになったのだそうです。

この伝説の真偽のほどはさておき、「虚空」は様々に伝承されてきた古典本曲の中でも名曲として人気があり、古典本曲を伝承する各流各派において大切に伝えられてきた特別な楽曲の一つと言えるでしょう。特に冒頭の「ツレー、レー、レー、チチーウー」の旋律は、流派ごとの味付けの違いはあれど、聴いた瞬間「ああっ、虚空だ!」とグッとくるものがあります。また冒頭フレーズのあとの落ち着いた乙(呂)音の続く味わい深い低音部、一転して緊張感あふれる三のウやヒ、チの連打などの差し迫った展開から、後半はリズミカルに乗っていくなど、「虚空」ならではの形というか、曲の個性というものがとても印象的な楽曲です。

個人的な感想として、どこかモヤっとした捉えどころのなさを持ち、ある種の「混沌」を表している「霧海篪」に比べ、「虚空」は曲の旋律や構成の均整がとれた美しさを持つ楽曲のように思われます。地歌箏曲に例えるなら「八重衣」にでも当てはまるのではないでしょうか。

全曲演奏すると25分程かかる大曲ですが、曲の構成を崩さないよう気をつけながら、各所から少しずつ抜粋して10分の演奏としました。

琴古流本曲としては、初代黒沢琴古が19歳の時、長崎の虚無僧寺・正寿軒にて一計子より伝授されました。なお、琴古流では当初「虚空」として伝えられた曲名が、伝承されるうちに「虚空鈴慕」となって今日に至っています。



※ふだんなかなか耳にする機会のない尺八音楽を、インターネット上で公開する取り組みです。

2018年5月6日日曜日

虚無僧の天蓋と、「鈴慕」の曲

GW帰省の折、実家の倉庫に片付けていた、学生時代の虚無僧の天蓋、袈裟、偈箱を探し出し、持ち帰って来ました。



大学1〜2回生の頃、熊本市在住の西村虚空先生にお習いしていたことがあり、古典本曲のお稽古とともに天蓋、袈裟、偈箱の作り方を教えて頂き、自分で実際に作って虚無僧行脚に出かけたものでした。夏休みを利用して九州を一周したこともあります。

虚空先生は、2回生の冬に米寿を目前に亡くなってしまい、僕自身は琴古流の道に進んでいったため、大学卒業後は「封印」していたのですが、実家に帰って探し当てたのをきっかけに「やはり手元に置いておこう」と思い、田主丸まで持ち帰って来ました。さすがにもうこれから虚無僧行脚をすることはないと思いますが、自分自身の歴史の1ページですし、「尺八本曲といえば虚無僧」なので、ライブ会場などのディスプレイくらいには使えるかもしれません。ちなみに天蓋は熊本県八代産のイグサ、袈裟は酒を濾すのに使う絞り布、偈箱は虚空先生のお宅で頂いたそうめんの箱が材料です。偈箱の文字は、虚空先生に書いて頂いたものです。




心配していた通り、天蓋が結構へしゃげてしまってました。これは畳表の材料であるイグサを編んで作っているため、使わずに保管しているとどうしてもそうなってしまいやすいのです。ただ、水をかけて形を整え、乾燥させると形が復活するらしいと聞いたことがあるので、試してみました。






「復元作業」の日は晴天にも恵まれ、どうにか往時の丸みを帯びたフォルムを取り戻すことができました。

作り方を指導して下さった西村虚空先生には、貴重な体験をさせて頂き、心から感謝しております。
「琴古流に専念」との思いで封印しておりましたが、最近は手持ちの文物や情報などは出し惜しみせずどんどん出して、沢山の人に見てもらわないとという思いに変化し、これらもいつかライブ会場などで実際に間近で見て頂くことができたらなどと考えております。




それから、西村虚空先生に教えていただいた古典本曲「鈴慕」を、もう一度吹いてみました。


虚空先生からは7曲の古典本曲を教わったのですが、そのうちでもこの「鈴慕」の曲は格別に大好きで、7曲の中でも特に詳細に手の技法を記録した譜面を自作して持っていました。
琴古流の道に進むにあたって、自分の中でも色々考えてこちらも「封印」していたのですが、この曲だけはその旋律が心から離れず、九州に戻ってきてから時々思い出したようにたまに吹いてみたりしていました。ただ、虚空先生に習った期間は2年ほどで、地無しの2尺6寸「虚鐸」は、結局理想の音が自分自身にもわからず、「曲は好きだけど吹き方がわからない」という混沌とした状態で自分の中にありました。そこが、継続してお習いすることができ、「山口五郎先生」という目標とすべき理想像が明確な琴古流本曲との違いでした。

ただ、曲自体は好きなので、色々迷ったのですが、自分自身が吹料にしている琴古流の1尺8寸で演奏してみました。ちなみに「鈴慕」以外の楽曲は、そこまで綿密な記録をしていませんでしたし、もう15年も前のことで、それ以降琴古流に気持ちを切り替えてしまったので、正直もう思い出して演奏できそうな気がしません。

吹き方や曲のイメージは、お習いしたときの記憶や譜面の書き込みに照らし合わせて、なるべくオリジナルに近いイメージにしていますが、なにぶん楽器が全く違うので、琴古流式の指づかいに所々変わったり、多少アタリが増えたりしています。


ちなみに、西村虚空先生は、この曲を浦本浙潮師から習われたということです。「浦本浙潮師は短い竹で吹かれていたのを、私が長管で吹くように変えた」との事でしたが、今度は長い竹でお習いしたのを1尺8寸に持ち替えて吹いたことになってしまいました。

2018年3月29日木曜日

【web演奏会】10分で琴古流本曲「寿調」

49回山口籟盟web演奏会【10分で琴古流本曲(36)「寿調」】
ふだんなかなか耳にする機会のない琴古流尺八本曲を、聴きやすい「10分程度」の演奏でお届けするシリーズです。

『三浦琴童譜』(正式には『三浦琴童先生著拍子、記号附 琴古流尺八本曲楽譜』)の1曲目を飾るのは「一二三鉢返寿調」です。これは、「一二三調」「鉢返」「寿調」の3曲が合わさった曲になります(正しくは、それに「竹翁先生入レコノ手」が加わる)。「一二三調」と「鉢返」は、曲の最後の旋律が共通しているので、「一二三調」の途中まで演奏した後に先に「鉢返」を吹き、最後に2曲の重複した終末部分を演奏するということのようです。これが所謂「一二三鉢返調」で、その「鉢返」の終わりの重複部分になる寸前に「寿調」を挿入したのが「一二三鉢返寿調」ということになるわけです。

文章で書くと、何が何だか判りにくくなってしまうのですが、要するに現行では「一二三鉢返調」という10分程度の2曲合体演奏が一般的になっているわけですが、『三浦琴童譜』においてはプラス「寿調」で、3曲合体の「一二三鉢返寿調」という譜面になっているわけです。しかし、実際には「一二三鉢返調」として演奏することが殆ど(というよりもほぼ全て)なので、「寿調」だけ取り出して「1曲」扱いすることが多いようです。

三浦琴童譜の注釈には「以下寿調又長調トモ云フ」とありますが、この「長調」という曲名は、『琴古手帳』の「当流尺八一道之事 十八条口伝」や「細川月翁文書」の『尺八曲目ケ条之書』に「一、長しらべをふく事」と出てきます。月翁文書の『尺八曲目ケ条之書』においては、付け紙に「初代琴古工夫して吹出す也 息気竹に和し候上ならでは何(いずれの)曲も吹かたし 何曲を吹とても前に是を吹て息気竹に和し其上にて曲を吹 為に設曲によりて吹仕廻の跡に入る音に伝あり」とあり、初代琴古が曲を演奏する前のウォーミングアップとして吹くように設定していたことが推測されます。この初代琴古の「長しらべ」と全く同一の曲なのかはわかりませんが、性質として「前吹」としての役割を持つ「調べ」であるならば、「一二三鉢返調」と統合されて伝わったとしても納得のいく由来の曲です。

私事ですが、お恥ずかしい話ながら、私自身関西での修行時代末期にお習いして以来、この「10分で」シリーズのために練習を開始するまでは一度たりとも吹いたことがありませんでした。しかし今回、練習の機会を得て吹いてみたところ意外(!?)だったのが、優雅な独特の旋律を持ち合わせた曲であり、一部雅楽を思わせる展開などもあったりして、なかなか侮れない、いい曲であったということです。「寿」という曲名も、こうした曲調によるものなのかもしれません。また、ここ数ヶ月「裏の曲」ばかりを吹いてきたため、久しぶりに「表の曲!」という雰囲気を味わいました。表の曲は「古伝三曲」「行草の手(竹盟社では「学行の手」)」「真の手」など、「いかにも琴古流本曲!!」な感じの形の整った楽曲が多いのに対し、裏の曲は「琴古流本曲の中でも特殊・突飛な曲」の割合が高く、特に最後の数曲は作曲時期が新しいこともあって、自分の中の演奏イメージがだいぶ表の曲から外れた状態にきていました。そこにこの「寿調」で、「おおっっっ!琴古流本曲本来の姿に戻ってきたぞ!」というような感動を味わったわけです。

現在では「琴古流本曲36曲」のトリを引き受けるこの「寿調」。地味なようでいて、実は旋律も美しく、さらに初代琴古以来の脈々と続く伝承を受け継いでいるこの楽曲を、「10分で」シリーズの最後に演奏公開させて頂けたことは、自分にとって新鮮な思い出として残りました。これからも、何か祝儀事での演奏機会があれば、ぜひこの「寿調」に活躍してもらおうかなと思っているこの頃です。なお、この曲も抜粋せず、「一二三鉢返寿調」のうちの「寿調」の部分だけを演奏して10分ちょっとに収まる楽曲です。



「山口籟盟web演奏会」は、ふだんなかなか耳にする機会のない尺八音楽を、インターネット上で公開する取り組みです。

【web演奏会】10分で琴古流本曲「月の曲」

48回山口籟盟web演奏会【10分で琴古流本曲(35)「月の曲」】
ふだんなかなか耳にする機会のない琴古流尺八本曲を、聴きやすい「10分程度」の演奏でお届けするシリーズです。

近代以降の琴古流の礎を築いた、2世荒木古童(竹翁)が作曲しました。以前から解説している通り、曙調子・雲井調子の移調が現行しない代わりに、琴古流本曲36曲にカウントされるようになった曲です。

この曲については、雑誌『三曲』の大正14年2月号に、三浦琴童が「荒木竹翁先生」という記事で言及していますので、ここに引用させていただきます。

「先生の作曲では現在も琴古流本曲として用ひてゐますが月の曲、之には呂のロから甲のハ迄昇る手がありますが、之は自然に昇せるので、之も月の昇つて行く形容を取入れたものでそこが此曲の骨子となるのです。
月に次いでは雪の曲、花の曲、も作曲の予定であつたとかで、花の曲に就ては先生の案になつてゐた手も聞かされた事があります。
雪は今戸へ引越してから裏の隅田川を見乍ら雪の情景を味つて会心の曲を仕揚げるのだと云つておられました。一局部の作はあつたのですが、終に完成を見なかつた事は誠に惜しい事です。
それでもかうして「月の曲」が残つておると云ふ事はせめてもの吾々の幸福だと思つております」

ちなみに『三浦琴童譜』の「月の曲」の注釈には、「此曲ハ荒木竹翁先生推敲中に歿せられしが、愛慕の意を表するため謹写せし者なり」とあります。

演奏してみますと、琴童師が解説されている「呂のロから甲のハまで昇る手」が実に印象的で、八寸管で壱越になる筒音が、第1オクターブから第3オクターブまで連続して吹き上がっていくような演出になっています。この手には譜面に注釈があり、「一と息ニテ呂ノロヨリ甲二ナシ五ノハノ呂ニナシ又甲ニナシ終リニ四ノハヲ一寸聞カセル」とあります。乙のロから甲に吹き上げ(第1オクターブから第2オクターブ)、そこから裏孔をあけて乙の五のハとし(甲のロと同音)、さらにそこから甲に上げる(第3オクターブ)というわけですね。しまいの部分は2、3孔をスって終わります。琴古流の「四のハ」は、1、4孔を閉じるようになっているので、注釈のような書き方になるのでしょう。

このスリの記述は、鹿の遠音の「竹翁先生替手(実際には現行の演奏は全てこの「替手」で演奏します)にもあります。「四のハ」は、「三のハ」と同じく近代に入ってから、外曲の必要性によって生み出された運指なわけですが、「月の曲」も、「鹿の遠音・竹翁先生替手」も、荒木竹翁が手付けしたわけですから、旋律自体が「近代の琴古流」へと移っていっているといえるでしょう。「月の曲」の終末には「ヒの中メリ」「レの中メリ」も出現し、あたかも外曲の後歌のような趣を感じます。

曲全体として、「琴古流本曲の代表的な手のオンパレード」というか、「ベストヒット集」とでもいう感じで印象的な手が連続して構成されており、非常に聴きやすいまとまりのよい楽曲となっています。ここでは抜粋せず全曲通していますが、15分以内に収まっています。曲の終わりは、殆どの琴古流本曲と同様「レロ」となっていますが、楽譜ではその横に細字で「或ハ、ハゝハレ」とあり、ひょっとしたら竹翁師が「最後まで迷っていた」のかもしれません。個人的には後者の方が自然な流れに感じますが、お習いしたのは「レロ」の方ですので、こちらで演奏しております。





「山口籟盟web演奏会」は、ふだんなかなか耳にする機会のない尺八音楽を、インターネット上で公開する取り組みです。

2018年3月25日日曜日

【web演奏会】10分で琴古流本曲「砧巣籠」

47回山口籟盟web演奏会【10分で琴古流本曲(34)「砧巣籠」】
ふだんなかなか耳にする機会のない琴古流尺八本曲を、聴きやすい「10分程度」の演奏でお届けするシリーズです。

初代琴古・本名黒澤幸八は、若干19歳にして、長崎・正壽軒(当時は玖崎寺)にて虚無僧・一計より「古伝三曲」「鹿の遠音」「波間鈴慕」など7曲を伝承、さらに全国各地の尺八本曲を蒐集して「琴古流本曲」の基礎を整えたのみならず製管にもたくみで、一躍尺八の名手として一斉を風靡した人物でした。その子である幸右衛門も名人の誉れ高く、父の没後幸八の名と琴古の号を襲名、2代黒沢琴古として活躍しました。さらにその子である雅十郎も幸八の名と琴古の号を襲名、3代黒沢琴古として世に知られています。

3代琴古の大きな業績としては、これまでの本曲の紹介文で度々引用してきた「琴古手帳」という忘備録を残したこと(実際には父の2代琴古が書き綴ったものに3代琴古が書き足したようである)、久松風陽を始めとする優れた門人を輩出したこと、そして今回の演奏曲「砧巣籠」を作曲したことが挙げられると思います。

「砧巣籠」は、「碪巣籠」とも表記され、尺八本曲として有名な「鶴の巣籠(琴古流ではのちに「巣鶴鈴慕」)と同じく十二段構成となっています。曲名から察せられる通り「鶴の巣籠」を強く意識して(というよりもベースにして)、なおかつ「砧」の要素を取り入れたということになるかと思います。三曲の世界において「砧」といえば、「砧もの」「砧地」などの用語が思い当たりますが、これらは「チンリンチンリン」「ツルテンツルテン」といった定型的なリズムの繰り返しが特徴的な器楽的楽曲といえます。つまり「砧巣籠」は、尺八本曲の要素に外曲の要素を加味して成立した楽曲といえるのではないでしょうか。実際、琴古流本曲の中では例外的に、「レ」の連続音を外曲と同じ「4押し」(殆どの曲は「1打ち」)にて行うように指定されています。曲全体を通して似たリズムの繰り返しや、同音の連続音が多用されています。

さらに、この曲によく現れる印象深いリズムが、いわゆる「三・三・七拍子」の音型です。「三・三・七拍子」といえば「応援団」の代表的なリズムパターンですが、これが江戸時代から脈々と日本人に受け継がれてきた伝統的な音型ということが、ここでも立証できるのではないでしょうか。そういえば、本曲でもよく用いられる「打ち詰め」(同じ音を、最初は間隔をあけて、だんだん早くしていく技法)のリズムも、応援団の演出としてよく用いられますね。

この「砧巣籠」は、「琴古流本曲36曲」が成立した頃から「裏の曲のラスト」を飾る1曲であったようで(近代以前はその後に「秘曲・呼返鹿遠音」が構えていた)、文献に残るエピソードにも「最後に習った」とか「この曲だけ残った」などの話が見られる所からも「琴古流本曲の中でも特別な存在」として、歴代大切に取り扱われてきたことが感じられます。師匠・吉村蒿盟師と初めてお会いした際「琴古流本曲の中で一番難しい曲は砧巣籠や」と語っておられたのが心に残っています。「知名度」では「巣鶴鈴慕」の方が上ですが、琴古流のみに伝わるこの特別な一曲を、これからも大切に吹き続けていきたいと決心しております。技術的な難易度も高く、スケールの大きいこの曲を充分に表現するのは大変難しいことですが、「現時点での自分の演奏」として、この場に記録させていただき、今後も精進を重ねたいと思います。





「山口籟盟web演奏会」は、ふだんなかなか耳にする機会のない尺八音楽を、インターネット上で公開する取り組みです。

2018年3月22日木曜日

【web演奏会】10分で琴古流本曲「厂音柱の曲」

46回山口籟盟web演奏会【10分で琴古流本曲(34)「厂音柱の曲」】
ふだんなかなか耳にする機会のない琴古流尺八本曲を、聴きやすい「10分程度」の演奏でお届けするシリーズです。

今回は、「芦の調」「厂音柱の曲」の二曲同時公開です。

「芦の調」「厂音柱の曲」は、ともに3世琴古作曲の「砧巣籠」の前吹として扱われたものであり、元々の「琴古流本曲36曲」には数えられていなかったものでありますが、曙調子・雲井調子の移調曲8曲が実際には演奏されなくなったことから、現在は独立した1曲に数えられております。「琴古手帳」の冒頭にある「当流尺八曲目録」に、「碪巣籠、前吹蘆調、同柱曲」とありますが、3世琴古以前に記録されたと思われる「当流尺八曲目」には「砧巣籠」が含まれておらず、当時は琴古流本曲は「表18曲、裏17曲の計35曲」だったことが分かります。「36曲」が成立したのは3世琴古の代になってからということになり、前吹である「芦の調」「厂音柱の曲」も、琴古流本曲成立当初にはなかった、比較的新しい曲と言えるでしょう。

なお、値賀笋童師著『伝統古典尺八覚え書』によると、「厂音柱の曲」は3代目琴古の門人であり、「琴古流中興の祖」とも呼ばれる久松風陽の作曲ということです。他の楽曲にはあまり見られない、雅楽のような手が出てくるなど、全体に流麗な雰囲気を感じます。なお、「厂音柱(ことぢ)」とは、箏の調弦の際に移動させる「琴柱」のことであり、昔から雁がねの群れに見立てる美意識があったようです。琴柱のフォルムそのものも、雁が羽を広げ長い首を前に出して飛ぶ姿を彷彿とさせますし、箏の調弦では、一の糸の柱の場所が高い位置にあり、二から下がって三、四と上がっていく形も、群れの並びと似ていますよね。山田流箏曲「岡康砧」にも、「月の前の砧は、夜寒を告ぐる雲井の雁は琴柱にうつして面白や」とあります。当て字もとても面白いですね。「雁音柱」と、最初の文字をがんだれに省略しない書き方もあります。



「山口籟盟web演奏会」は、ふだんなかなか耳にする機会のない尺八音楽を、インターネット上で公開する取り組みです。

【web演奏会】10分で琴古流本曲「芦の調」

45回山口籟盟web演奏会【10分で琴古流本曲(33)「芦の調」】
ふだんなかなか耳にする機会のない琴古流尺八本曲を、聴きやすい「10分程度」の演奏でお届けするシリーズです。

今回は、「芦の調」「厂音柱の曲」の二曲同時公開です。

この「芦の調」と、「厂音柱の曲」は、ともに3世琴古作曲の「砧巣籠」の前吹として扱われたものであり、元々の「琴古流本曲36曲」には数えられていなかったものでありますが、曙調子・雲井調子の移調曲8曲が実際には演奏されなくなったことから、現在は独立した1曲に数えられております。「琴古手帳」の冒頭にある「当流尺八曲目録」に、「碪巣籠、前吹蘆調、同柱曲」とありますが、3世琴古以前に記録されたと思われる「当流尺八曲目」には「砧巣籠」が含まれておらず、当時は琴古流本曲は「表18曲、裏17曲の計35曲」だったことが分かります。「36曲」が成立したのは3世琴古の代になってからということになり、前吹である「芦の調」「厂音柱の曲」も、琴古流本曲成立当初にはなかった、比較的新しい曲と言えるでしょう。

なお、値賀笋童師著『伝統古典尺八覚え書』によると、「芦の調」は2代目琴古の門人、薩摩藩主島津公次男の蘆月公の作曲とあります。出典は不明ですが、もしそれが事実であれば、「鳳将雛」作曲者の細川月翁と並んで興味深い話ですね。三浦琴童譜ではたった2行の譜面でありますが、他の曲にない独特の旋律で格調高く、印象深い1曲であるように思います。



「山口籟盟web演奏会」は、ふだんなかなか耳にする機会のない尺八音楽を、インターネット上で公開する取り組みです。

2018年3月17日土曜日

【web演奏会】10分で琴古流本曲「曙菅垣」

第44回山口籟盟web演奏会【10分で琴古流本曲(31)「曙菅垣」】
ふだんなかなか耳にする機会のない琴古流尺八本曲を、聴きやすい「10分程度」の演奏でお届けするシリーズです。

前回の「曙調」の解説でも述べましたように、この「曙菅垣」も、黒沢琴古による琴古流本曲成立当初からの楽曲ではなく、曙調子・雲井調子へ移調された計8曲が事実上演奏されない現行の琴古流本曲を「36曲」にするために、近代以降になってカウントされ始めた楽曲となります。

「琴古手帳」にある「曙菅垣」は、「転菅垣」を曙調子に移調したものであるのに対し、現行の「曙菅垣」は、奥州の千歳市(ちとせのいち)という盲人が作曲し、荒木竹翁が16、7歳の頃に江戸で流行したものだということです。「〇〇菅垣」という楽曲名は、「六段」など糸の曲との歴史的な繋がりが深く、拍子が比較的ハッキリしているというのは何度か述べましたが、この曲はそうした傾向がとても強いように思います。楽譜の雰囲気も他の本曲(「〇〇菅垣」を含めて)とは違って、細かい拍子の補線や連続音、ひと繋がりのフレーズに沢山の音符が並ぶなど、さながら外曲の譜面を眺めているような気持ちになります。殆どの琴古流本曲は、「レ」の連続音は1孔で当たるのですが、この曲は外曲と同じ4孔で当たります。なにより旋律そのものが、まるで糸の楽曲のようにメロディアスなものとなっています。

曲は大きく前半と後半に分かれ、前半部の最後に一度速さが緩み、再び冒頭の旋律が再開されて後半部が始まっています。元々同じ旋律の繰り返しが多く、前半部に装飾的な旋律や替手、高音部へと移る展開を追加して後半部を作曲しているような雰囲気です。全曲演奏しても「10分程度」にはなりますが、現代人の耳にはあまりにも冗長に過ぎるような嫌いもあって、後半部のみの演奏としています。なお、琴古流各派毎に替手の手付けがされていることも多いようで、社中の演奏会などでは総員による本手・替手の大合奏を会の冒頭や中盤などに設定しているパターンをよく見かける曲でもあります。


※「山口籟盟web演奏会」は、ふだんなかなか耳にする機会のない尺八音楽を、インターネット上で公開する取り組みです。

2018年3月6日火曜日

【web演奏会】10分で琴古流本曲「曙調」

第43回山口籟盟web演奏会【10分で琴古流本曲(30)「曙調」】
ふだんなかなか耳にする機会のない琴古流尺八本曲を、聴きやすい「10分程度」の演奏でお届けするシリーズです。

この「10分で琴古流本曲」シリーズも、ついに全36曲中「30曲目」に入ってまいりました。

さて、この曲名「曙調」とは、「曙調子」の「一二三鉢返調」であることを意味しています。
「曙調子(あけぼのちょうし)」とは、尺八における「本調子(レ調)に対して完全5度高い(ロ調)調子への移調を指します。ちなみに、完全4度移調したもの(リ調)は「雲井調子(くもいちょうし)」と呼びます。

これらの移調は、初代黒沢琴古の頃に盛んに行われていたようで、1尺8寸管にて本調子で演奏した時、1尺3寸で曙調子を、また2尺3寸で雲井調子を吹くとピッタリ合うとされています。長さの違う尺八で、同じ曲を合奏しようとしたわけですね。しかし、同じ長さの尺八で本調子、曙調子、雲井調子と吹き比べれば、それぞれが完全5度、完全4度の移調となるわけです。

初代琴古は、こうした移調を利用して、霧海ヂ鈴慕、虚空鈴慕、転菅垣、栄獅子の4曲を、それぞれ曙調子(曙鈴慕、曙虚空、曙菅垣、曙獅子)、雲井調子(雲井鈴慕、雲井虚空、雲井菅垣、雲井獅子)に移調し、それら8曲を琴古流本曲・裏18曲の中にカウントしたわけです。しかし、現実にはそれらの移調曲はほとんど現行されていません。現在はその代わりとして、一二三鉢返調を曙調子に移調したこの「曙調」、江戸時代末期に千歳市が作曲し、江戸で流行させたという「曙菅垣」、3世琴古作曲の「砧巣籠」の前吹であった「芦の調」「厂音柱の曲」、荒木竹翁作曲の「月の曲」、「一二三鉢返寿調」から独立させた「寿調」を「1曲」と数えております。足りない2曲は「表の曲」に「一二三鉢返調」と「一閑流虚空替手」を足すことで、「合計36曲」にしているわけです。

つまり、ほとんど現行されない、かつての移調の習慣の「なごり」のような感覚で、一二三鉢返調を曙調子に移調したこの「曙調」が存在しているのだと言えるのかもしれません。尺八の「曙調子」は、三絃の「二上り」と似ていて、実際に尺八の「曙調子」のことを「二上り」とも呼んだりします。また、「六段の調」をレ=1からロ=1に上げた譜面の題簽にも「曙六段」と記されています。これも三絃は二上りですよね。本調子に比べて華やかで甲高い感じがします。

逆に「雲井調子」は「三下り」とも呼ばれています。こちらは曙調子の華やかさとは対照的に、少しくぐもったような「陰」の印象が強いです。一二三鉢返調も六段も、「雲井調子」への移調は演奏されているものを聴いたことがありませんので、実際にはほとんど現行していないのでしょう。昔の雑誌『三曲』の裏表紙に、付録のようにして「雲井六段」の譜面が印刷されているものだけ確認できました。
やはり「移調」というものは、曲の印象を大きく左右する上に、「独立した1曲」とは見なされにくいものなのでしょうね。

※「山口籟盟web演奏会」は、ふだんなかなか耳にする機会のない尺八音楽を、インターネット上で公開する取り組みです。

2018年2月1日木曜日

【web演奏会】10分で琴古流本曲「鳳将雛」

【第42回山口籟盟web演奏会【10分で琴古流本曲(29)「鳳将雛」】
ふだんなかなか耳にする機会のない琴古流尺八本曲を、聴きやすい「10分程度」の演奏でお届けするシリーズです。

「裏の曲」9曲目は「鳳将雛」です。
この曲は『琴古手帳』の記述を根拠に、初代琴古が手付け(作曲)をし、鈴法寺の勇虎尊師、泰巌尊師に届けたものといわれてきました。しかし、佐藤晴美師が琴古社から琴古流本曲の譜本を出版するにあたり、全国各地から琴古流本曲の各種の異本を収集し対照参考にする中で、熊本から取り寄せた「鳳将雛」の古譜をもとに、肥後細川藩の支藩である、宇土藩の6代目藩主・細川興文(月翁)公が作曲し、それを初代琴古が前半1/3の手を増補したものとする説を唱えました。さらに、その宇土藩主・細川月翁公の所蔵していた琴古流尺八関連の古文書(通称、『月翁文献』)の詳細が、虚無僧研究会の機関紙『一音成仏』において公開され、月翁公が隠居し、江戸から熊本に戻る直前の明和9年(1772)、2代目琴古から集中的に琴古流本曲・表18曲の伝授を受けたこと、その最終日に「鳳将雛」を完成させ、安永2年(1773)琴古流の新曲として認定されたこと、同時に月翁公が「本則(虚無僧の免許状)を受けたことなどが明らかにされました。よって現在、この曲は2代目琴古門人・肥後宇土藩主・細川月翁の作曲によるものと認知されております。

ちなみに、他の多くの琴古流本曲とは趣を異にする「鳳将雛」という曲名は、『晋書、楽志』『古楽府、隴西行』『楽府詩集』を出典として「呉声十曲の中の三が鳳将雛という」とあるそうで、当時高い文化的素養を持ち、詩文や俳句、茶道なども良くしたといわれる月翁公ならではの命名ではないかと言われております。なお「鳳将雛」とは鳳凰の雛のことで、麒麟児や神童と同じく幼くして才覚を見せる男児を意味するとのことです。

全曲を通すと20分以上かかる楽曲ですので、今回はその中から、曲中何度も奏される「ウチー、ウー、チウチウツールー引」の手が印象的な前半部と、中盤以降の高音の部分を中心に抜粋しております。高音の部分は、他の琴古流本曲とはひと味違った、雅楽を思わせるような旋律が特徴的です。また、曲中の「コロコロ」の手は、鳳凰の雛の鳴き声を模した手だと言われています。

※「山口籟盟web演奏会」は、ふだんなかなか耳にする機会のない尺八音楽を、インターネット上で公開する取り組みです。

2017年11月9日木曜日

三浦琴童譜のレプリカ

僕の使っている、琴古流本曲の「三浦琴童譜」は、学生時代にオリジナルを元に、なるべく忠実に再現した自作のレプリカなんですが、オリジナルと同じような経年変化が出てきました。
表紙は「仙通(せんつう)」と呼ばれる表装用の布地なんですが、なんと縦糸は絹、横糸は和紙!なんだそうです。ですから、このように角からほつれてくるわけです。
元にしたオリジナルは、製本された昭和3年から何十年も経て、この部分がかなりほつれていました。



ちなみに「仙通」については、熊本の老舗の表装やさんにオリジナルを見て直接教えていただき、そのお店でこのレプリカ用の布も購入したので、間違いない情報だと思います。
表装の業界からすると、そんなに高価な布ではないそうです。
ちなみに、楽譜の紙は、機械漉きの鳥の子紙という和紙だということで、そちらも同じく鳥の子紙にて再現しています。




オリジナルに付いていた、茶色の包み紙も、茶封筒を利用して再現しました。
茶色の包み紙の題簽の上下がズレているのも、オリジナルの再現です。
ちなみに、左右に貼り付けている補強紙は、角が破れたためで、オリジナルもこの部分が破れていました。

2016年1月24日日曜日

「八千代獅子」手事の段の区切れ

先日の「千鳥」の手事の話題に引き続き、
今回は「八千代獅子」の手事の段の区切れについて…

都山から琴古に転門して、八千代獅子の段の区切れが違うのにも
びっくりしました。


青譜「八千代獅子」


琴古流の青譜では、初段、二段、三段ともすべて
「レーツーツツ、レーツーロー…」のところから始まります。
(二段、三段は入れ手が入っていて、「レーチレツツ」に
なっていますが。※アンダーラインが入れ手)

都山で習ったときには、初段は琴古と同じなのですが、
二段、三段は、それぞれ琴古の区切れの1行前の
「リー、リーリリチー、リチレーチー…」(三段はオクターブ上)
のところからがスタートでした。
青譜でも、そこにも区切れの線が入っていますね。


ちなみに、琴古では二段が乙、三段が甲ですが、都山は逆です。
琴古が三絃の通りなので、都山ではオクターブずれるように
してあるのでしょう。

ちょっと現在都山譜の「八千代獅子」が手元になく
写真ではアップができないのが残念ですが…


白譜「八千代獅子」


白譜には、段の区切れがありません。
また、最初から最後まで大間拍子で書いてあります。
音楽的には、その方が合っているなと思いますが、
表拍子と裏拍子が何度もひっくり返るので、
青譜では見やすいように途中から小間拍子にしてあるのかなと
思います。


話が脱線しました。では、糸の譜面を見てみましょう。

邦楽社発行、宮城道雄著「八千代獅子」
「一段二段等の区切りは人により違うが
尺八では大別して琴古、都山と分けられる」


家庭音楽会発行、山口巌校閲「八千代獅子」
「一段二段等の区切りは人々により異なるも
尺八にては大別して琴古都山の二大別とす
一段、二段、三段の僅かの相違に注意されよ」



…要するに、派によって段の区切れはまちまちなので、
尺八の琴古・都山の区切れを併記しているということですね

しかも、家庭の譜では、なんと
「都山、琴古の相違を知らずして合奏するも合ふ道理が
ありません」とのこと。

三曲合奏なのに、尺八の方が主役ということなのでしょうか!?
(「八千代獅子」の原曲は尺八本曲という説は有名ですが…)


…と、これで解決、と思われたのですが、なんともう一つ
発見をしてしまいました。
糸の楽譜では、「初段でも」琴古と都山の段の区切れが
違うのです!!



この「都山初段」では、青譜でちょうど小間拍子になるところ、
つまり前歌が終わってすぐの「チー、ヒーチー、レレーツロー…」
のところからが、区切れとなっているのです。




そこで、都山流の古い譜面をチェックすると…

大正12年刊都山譜「八千代獅子」


なんと、現行の譜面と初段の場所が違うのです!!


というわけで、全て整理がつきました。



まとめますと、

1、琴古流の青譜では、段の区切れは全て
 「レーツーツツ、レーツーロー…」のところから
2、琴古流の白譜では、段の区切れなし
3、箏の譜面では、琴古と都山の段区切れが併記してある。
 ただし、初段は古い都山譜のままになっている。
4、都山譜では、初段は琴古と同じ、二段、三段は、
 「リー、リーリリチー、リチレーチー…」のところ。
 ただし、昔の都山譜では、初段が前歌終了直後で、現行とは異なる
 ということになります。

2016年1月17日日曜日

「千鳥」の手事は、どこから?

web演奏会で「千鳥の曲」をさせて頂いたので、
ちょっと脳裏をよぎった話題を…



私は都山流で尺八を始め、後から琴古流に転門した者なのですが、
琴古流の「千鳥の曲」を習ってびっくりしたのが、
「手事」の始まりが都山とは違う場所なのです。
青譜の「千鳥の曲」

白譜の「千鳥の曲」でも、同様です。

都山流では、前歌が終わり、しばらく手だけの部分が続いた後、
「波の部」が始まる「ツレー」の所からが手事扱いなのですが
琴古流では、前歌の歌が途切れた次の瞬間の「ハロー」からが
手事になっているのです。

現在の都山譜

昔の都山譜も同様です。大正12年刊、初代中尾都山著



箏の楽譜を確認すると…




邦楽社発行、宮城道雄著「千鳥の曲」
都山流と同じ区切れですね。







家庭音楽会発行、山口巌校閲「千鳥の曲」
都山流と同じ区切れですが、琴古流の区切れのところに、
次のような注釈があります。


「此所より手事と称する人あり」

…なるほど!会派によっては、琴古と同じ区切り方になっている
ところもあるということですね!!
しかし、逆に言うと、やはり都山流と同じ区切れが多数派という
ことになりそうです。




邦楽社発行、中能島欣一著「千鳥の曲」
山田流では、「波の部」を「序」、「千鳥の部」を「手事」と
称しているようです。
しかも、替手の始まりが、波の部の途中からなんですね。
「シャシャテン」のところは、掛け合いになっています。

流派によって違いがあり、おもしろいものですね。







ちなみに、私個人的には、音楽的には都山流の区切り方が
妥当かなと思っており、「波の部」の直前のところは意識を
変えるようにしています。



ただ、やはり前歌がおわった直後のところは、やはり琴古の
区切れを意識しますね。

師匠からのお稽古でも、そのように習いましたし。

2016年1月11日月曜日

楽譜がなくなっていく…

昨日の話題の続きですが、尺八の楽譜の流通事情が、
少しずつ難しくなって来ているようですね。

琴古流のいわゆる「青譜」に、少しずつ欠品が
増えてきているようです。

生田の部、山田の部全部で、これだけあります!


自分は学生の時、とにかく「青譜」をそろえようと、
訪れた先のあちこちの和楽器屋さんを巡りまして、
何とかほぼ全冊を新品で集めました。
学生時代のアルバイトの給料は、ほぼ全て楽譜代や音源代、
関西の師匠の元に通う交通費などになりました。
そんな中、京都の「金善」さんで、とても古い楽譜の在庫品とも
出会ったりしたわけです。




しかし最近、琴古流を習いはじめて楽譜を買い求めようとすると、
必要な曲の譜面が欠品になっているという話を時々耳にします。
知り合いの方がそのようにおっしゃったので、地元福岡をはじめ
ネット上で調べた色々な和楽器屋さんに電話で問い合わせてみても
結局見つけられなかった曲もありました。



そもそも、琴古流の楽譜の成り立ちは、その昔(明治時代頃)
弟子がお師匠の元に稽古に行く際、
「折手本」という、何も書かれていない折り本を持参し、
その場で習うところだけ書いてもらうというものだったそうです。



それが少しずつ、お師匠が曲の譜面を清書して印刷しておき、
自分の門弟に与えるという形になっていったようですね。
今でも「白譜」などは、一般の和楽器店に流通しておらず、
上記のような形に近いスタイルで存続していると言えるでしょう。

それに対して「青譜」が画期的だったのは、
清書・印刷した楽譜を、全国の和楽器屋さんに流通させ、
誰でも買い求めることができるようにしたことでしょう。
こうして、尺八人口が爆発的に増えた大正〜昭和の時代、
たくさんの青譜が印刷されて流通し、使用されていったのです。

ただ、どうしても以前から、曲によって売れる数に差が生まれ、
学生時代の私が手に入れたような、発行年数が古い楽譜が
老舗の楽器屋さんに残っているという状況が生まれたわけですね。

尺八人口が減少に転じている現在、こうした状況がさらに深刻化し
発行部数もむやみに増やせないという苦しい状態から
「楽譜がそろわない」という状況になっているのでしょう。

打開策として、かつて尺八をなさっていた方の青譜を
譲って頂き、使わせてもらっているという方もおられます。
高齢で尺八を引退された方の財産である楽譜達も、
こうして「第2の人生」で活躍できるのであれば、
それは大変有意義な「知的財産のリユース」とも
言えるように思えます。

こうした話題をFacebook上でさせて頂いている中、
都山流・上田流から分れて成立した尺八の流派である
村治流の方から、同流の楽譜の事情を教えて頂きました。
村治流では、残っている譜面を一ヶ所に集めて管理したり、
新しい譜面がない曲はデータ化して保管するなど、
新たな取り組みを始めることで、譜面を後世に残そうと
流を上げて努力されているとのことです。


やはり、楽譜事情を始めとして、尺八を取り巻く環境は
大きく変わってきており、伝統を後世に伝えていくためにも、
これまでとは違ったアプローチが必要になってきていることを
痛切に感じる今日この頃です。
自分に出来ることはないか、一生懸命考えていきたいと思います。

2016年1月10日日曜日

古い譜本

Facebookでお知り合いになった京都の尺八家の方と、
京都の和楽器屋「金善」の話題になりました。

そういえば学生時代から修業時代の期間、
青譜を買い集めるためにあちこちの和楽器屋を巡りましたが、
京都・祇園の「金善」でも、何冊も買わせて頂きました。

老舗の「金善」には、発行年数の古い青譜もたくさん残っていて、
そうした本を収集するのも楽しみの一つでした。





例えば、昭和28年刊の「八千代獅子替手」。
この年代の本は、紙質がザラザラしています。




金善で「新品」で購入した中で最も古いのが、
大正15年刊の長唄「浅妻船」。
年代ごとに、紙質や印刷のインクの色が少しずつ違って、
集めていくと面白いです。
また、古い本の在庫には、昔の価格の上から
改訂された値札シールが貼られ、
古ければ古いほど、たくさんのシールがまるで地層のように
積み重なっていきます。
「琴古流あるある」の一つですね。




ちなみに、神田神保町に出向くと、たくさんの青譜の古本と
出会います。
大正5年の「新娘道成寺」。
この頃からすでに、「値札改訂シール」が存在していたのですね!
「金貳拾五銭」の上から「金參拾銭」が貼られていました。



話題が変わりますが、「竹盟社の譜」というのもあります。
私の手元にあるのは、この1冊です。
山田流「松風」。
以前お世話になった、竹盟社の方から頂きました。
表紙が千鳥と波の絵柄になっている、美しい本です。

2014年4月19日土曜日

良成親王の大藤

八女市黒木町の「大藤まつり」が始まったとのことで、早速見に行きました。まだ完全に咲き切っていないようでしたが、圧倒的なスケールの巨大な藤棚にめをうばわれました。

黒木町の観光案内HPより
1395年、後征西将軍良成(よしなり)親王のお手植えと伝えられる黒木大藤は、これまでの歴史の中で幾多の戦いと大火をくぐり抜けこれまで樹齢約600年を保ってきました。いまでも力強く、また、華麗に、そしてたくましく生き続ける長寿の大藤として全国に名が知れるようになり、国の天然記念物に指定されています。毎年約20万人の来訪があり多くの方が気品に満ちた花と香りを楽しまれています。

良成親王は、後醍醐天皇の孫で、「つくしの宮」と称される懐良(かねなが)親王の子に当たります。両親王とも、南朝側の兵を率いて、筑後の地で戦いを続けられたということで、ゆかりのある名所や地名が多く残っております。「尺八史考」によれば、『吉野拾遺』に、懐良親王が尺八を吹いたとの説話が掲載されているそうです。因みに、同書では懐良親王のその後の消息を不明としていますが、墓は先日ブログでご紹介した八女市星野村にあるそうです。

2013年11月13日水曜日

虚無僧寺「林棲軒」跡が見つかりました!

塚本虚堂師の『古典尺八及び三曲に関する小論集』の中の一項に、「久留米「林棲軒」の遺跡発見」というのがあります。身近な名所ほど意外に後回しとなり中々訪れない事が多いもの。学生時代から読んでいた本でしたが、実際に行って見ることもせず、そんな記事があったことも忘れておりました。最近、吉村蒿盟師匠からの紹介がきっかけで、これは一つ調べてみようという気になり、本日、本業の最中に郷土史家の方とお会いする機会があったので、その場所を教えていただきました。

場所は、うきは市(旧浮羽郡)吉井町宮田の国道210号線バイパス沿いで、久留米市方面から見ると「千年小東」信号から約100mほど大分よりの左手に「塚堂(つかんどう)古墳」という前方後円墳があり、その国道を挟んで向かい側にある、コンクリート塀で囲まれた墓地の一角でした。塚本師の論文によれば、林棲軒の住職の末裔の方が大分におられ、この墓地はその方の一族の墓所であるとのこと。林棲軒は一月寺の末寺であり、この場所は久留米市の故木下吟鈴氏(川瀬師直門、木下楽器経営)が探し当てられたそうです。昭和34年の記事なので、その後どうなっているかと思いましたが、本に載っている写真のままの状態でした。

取り急ぎの報告ですが、そのうち詳細をHPの方に掲載したいと思います。

↑お墓の写真を載せてしまっていいのか迷ったのですが…。結局載せてしまいました。