2017年10月9日月曜日

【H29 「秋の山口籟盟webストリートライブ」『茶湯音頭』】

このところ、本業が非常に忙しく、なかなか演奏活動等(リアルな場でも、web上でも)に時間が割けない状況が続いております。まあ、本業が充実しているということそのものは、大切なことなのかもしれませんが。しかしまあ、人間、「余裕」というのは大切なものですね。3連休をかけてやっと、精神的にも余裕を取り戻したところです。

さて、昨年はFacebook上で展開した「秋のwebストリートライブ」、今年は色々あってYouTubeおよびブログ上にて開催させていただきます。曲目は『茶湯音頭』。このところの忙しい間にも、手慰みになんとはなしに譜本に手が伸びて吹いていた曲です。心が求めていた楽曲だったのでしょう。





最近、「尺八を吹くって、どういうことなのかなぁ~」とか、「演奏活動って、なんなのかなぁ~」とか、ぼんやり考えたりします。「而今の会」がひと段落ついて、差し迫った目標がないというのもあるし、仕事で忙しいというのもあるしで、思考が彷徨っているのでしょう

こういうとき僕は、「そもそも、『音楽をやる』って、人間にとってどういう行為なんだろう??」とか思ったりするわけです。


その一つの答えの形かな、と最近思ったのが、たまたまFBやらYouTubeやらで見かけた「有山じゅんじ」というブルース・ギタリスト、そしてその方が出演していた「なにわブルースストリート」というイベントの告知ムービーでした。


何というか、いかにも「なにわ」な感じの、いい塩梅に枯れたブルースとギターが味わい深いのですが、テクニック的に上手なのもそうなんですが、なんだか「音楽とともに生活している」「仲間と分け隔てなく音楽を楽しんでいる」感が、本当にすばらしいなと思ったわけです。

そういえば、大阪に移住してすぐの頃は、いろいろなストリートライブを見に行ったりとか、知人のお世話になってライブハウスで演奏させてもらったりとかしたなぁ、と、かつての思い出がよみがえってきます。



そういうフィーリングが尺八でも出せたらいいんですけど
なかなか自分なりの音楽としての答えが出せませんね。

「尺八本曲」とか、「地歌箏曲」とか、好きな音楽はたくさんあるんですけど。「生活の中の音楽」となるまでには、自分の中にもう少し熟成が必要なのかもしれません。



そういうことをもやもや思いながらの3連休の最終日、思い切って『茶湯音頭』を演奏してみました。
練習なしの一発どりで、多少あらがありますが、そういうもんかなと思ってそのまま上げています。服装も普段着のままです。最近、本当に「音楽って、なんなんだろう??」とか思ってますが、今の現状をストレートに出してみることで答えに近づけるのかもしれません。



ああいう「なにわブルースストリート」みたいに、分け隔てなくわいわいやってみたいな

2017年10月3日火曜日

【web演奏会】10分で琴古流本曲「目黒獅子」

36回山口籟盟web演奏会【10分で琴古流本曲(23)「目黒獅子」】
ふだんなかなか耳にする機会のない琴古流尺八本曲を、聴きやすい「10分程度」の演奏でお届けするシリーズです。


「裏の曲」3曲目は「目黒獅子」です。
『琴古手帳』によれば、一月寺の末寺で、横浜にあった青木山西向寺の門弟露秋子より伝来、露秋子が「京鈴慕」を懇望したので、初代琴古が伝授したと記されています。

曲名の末尾に「獅子」がつく楽曲としては、琴古流本曲にはこの曲の他に「栄獅子」があります。「〇〇菅垣」が糸の曲と関係が深いというエピソードは以前取り上げましたが、「〇〇獅子」も、地歌箏曲においても1ジャンルとして確立されています。尺八本曲の「獅子」がどこまで地歌の獅子物と関係があるのかは詳しくわかりませんが、地歌箏曲と尺八本曲の世界が、相互交流を持ちながら発展してきたのではないかというのは、想像に難くありません。有名な話で、「八千代獅子」は、原曲が尺八本曲だったらしいというのもあります。

「栄獅子」「目黒獅子」に共通した要素として、曲の構成に「繰り返し」や「段合わせ」などの要素が盛り込まれているというのがあります。この「目黒獅子」も、前半部と後半部が吹合せできるよう、段合わせ可能な旋律となっています。また、繰り返しフレーズの多用や、一まとまりの旋律を数回繰り返すような演出もなされています。流石に昨今の琴古流本曲の演奏スピードでは、繰り返しまで含めて全て演奏すると冗長すぎるきらいがあり、今回は繰り返しをせず、段合わせの箇所は前半部を取り上げ、10分程度の演奏にまとめました。



「山口籟盟web演奏会」は、ふだんなかなか耳にする機会のない尺八音楽を、インターネット上で公開する取り組みです。