2013年9月23日月曜日

お彼岸

今日は秋分の日、日差しは強いですがもう完全に秋ですね。心地よい青空と秋風の中、虚空鈴慕を吹いて来ました。吹き方が変わって、歌口が風に多少煽られても、殆ど影響なく音を出し続けられるようになりました。

帰りがけに、郵便局の前の朝顔が目に止まりました。大変美しい青色でした。

2013年9月22日日曜日

秋の虚空鈴慕

久松風陽の『独問答』を読んで、ふと「虚空鈴慕」を吹きたくなったので、久しぶりに朝練で虚空鈴慕を吹きました。

去年の夏は、スカッと晴れた夏空のもとで練習に励んだのですが、今年はなぜか夏には全く吹く気が起こりませんでした。色々と気持ちの面で葛藤があったから、古伝三曲の境地を味わえなかったのでしょう。九月になって、尺八の吹き方の迷いが取れ、20分を超える大曲も、リラックスして味わいながら演奏できるようになって来ました。

古伝三曲の中で、「名曲」はもちろん「真虚霊」でしょうが、個人的に最も気に入っているのは「虚空鈴慕」です。曲の組み立てが工夫されていて、全部で「四段」のうち「二段」と「四段」(譜面にそう書いてはないのですが、勝手にそう呼んでいます)が段合わせできる上に、初段(虚空の雄大な風景・起)二段(引き続いて、乙音中心の落ち着いた流れ・承)三段(高音の緊張感・転)四段(メロディアスな終末・結)と、構成が整っているのです。旋律も格別に美しいと思います。

曲が整っているためでしょうか、一年ぶりに吹きましたが、暗譜で通せました。あとの二曲は、覚え直さないと暗譜はむつかしいと思います。特に、「霧海ヂ鈴慕」は、混沌としてカオスなので、中々大変です。

空は雲が出ていて「爽やかな秋晴れ」とまでは言えませんでしたが、非常に充実した二十数分間を過ごすことができました。

2013年9月21日土曜日

久留米焼き鳥フェスタ

今日と明日、「久留米焼き鳥日本一フェスタ」が、久留米市東町公園で開催されています。

久留米はB級グルメで有名な街で、久留米ラーメン、うどん、餃子…など色々ありますが、焼き鳥は中でも取り分け有名でしょう。本日、早速行って見ましたが、沢山の屋台が軒をつらね、もくもくと煙が上がり、人気店には長蛇の列が並んでいました。ステージにはダンスのグループが次から次へと踊っていて、筑後の酒蔵からも出店があり、お祭のように盛り上がっていました。

ただ、難はこのしゃく熱の秋晴れで、本当に暑い一日でした。色んな店を食べ比べするのにはとても良い機会でしたが、落ち着いて焼き立てを食べるにはやはり店内の方がいいでしょうね。


2013年9月19日木曜日

中秋の名月

♪月の前の、砧は〜〜♫

本日は旧暦8月15日、中秋の名月ですね。
さやけき月影に、心が清々しい気持ちになりました。大変明るい月夜です。



2013年9月12日木曜日

エルサルバドル•モンテシオン復活

こないだの日曜日にあだち珈琲に行くと、ついにあのモンテシオンが入荷となっていました。

色々なコーヒーを試しましたが、やっぱりこれが一番シックリ来ます。店主の安達さんから、「エルサルバドルは酸味が少ないからね」と言われました。この店でコーヒーの酸味の美味しさを始めて味わいましたが、モンテシオンの酸味の度合いが自分にとってはちょうどいいのかも知れません。朝のコーヒーが充実すると、心が豊かになります。

2013年9月7日土曜日

洋画家・彭城貞徳は、吉田一調門人・彭城逸調

7月28日に、石橋美術館の「洋画家たちの明治」という展覧会に行った話を載せましたが、その日以来、気になっていたことが本日氷解しましたので、ご報告致します。

あの「鮭図」で有名な高橋由一の門人・彭城貞徳の「静物」という作品。
この解説に気になる一文が。
「尺八の腕はプロ級」

「彭城(さかき)」で尺八とくれば、思い出すのが吉田一調門人の彭城逸調(さかきいっちょう)です。しかし、その日以来の猛暑の影響で、エアコンレスの書斎で調べる気も起こらず、確かめずに放ったらかしになっていました。

一ヶ月半が経過した本日、調べ物で『尺八史考』をめくっていたところ、やはり吉田一調の門人に「逸調・彭城貞徳」の文字が!そこで、ネットで調べてみると…

さかき-ていとく【彭城貞徳】
1858-1939 明治-昭和時代前期の洋画家。
安政5年2月11日生まれ。肥前長崎の人。高橋由一(ゆいち)の天絵社でまなぶ。石版会社玄々堂などにつとめたのち帰郷。明治26-33年アメリカ,ヨーロッパに遊学,イギリスでは図案家としてはたらく。帰国後,鎮西学院などでおしえ,画塾をひらいた。昭和14年1月4日死去。82歳。工部美術学校中退。本名は森元貞徳。作品に「和洋合奏之図」など。
(コトバンクより)


彭城貞徳(1858~1939)は長崎生まれの日本近代洋画の先駆けである。
安政五年唐通事の名門に生をうけ、17歳の頃高橋由一の天絵楼に入門し油絵を学び、その後工部美術学校画学科で19世紀イタリア アカデミズムの洗礼を受けた。日本橋の亥々堂に職を得、美校を中退するも、明治26年シカゴ万博出品代表として渡米。英仏を回り、明治33年に帰国後、神戸、長崎で制作と美術教育に専念した。
生存中の昭和7年日動画廊で遺作展が開かれたのは、情報の少なかった当時、その実力は中央でも注目された存在であった証であろう。
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1117728/1139685/48129870

…と、尺八に関する話題はないものの、長崎出身で高橋由一に師事ののち洋行し、帰朝の後制作と後進の指導に尽力したことが読み取れます。

因みに、作品「和洋合奏之図」には、ちゃんと尺八が描かれています。


(追記)彭城逸調は、「一調」を継いで二代目となったようです(値賀笋童・『伝統古典尺八覚え書』より)

また、『三曲』昭和7年9月号に、中塚竹禅が「彭城貞徳翁の事」という記事を載せているようですが、残念ながら『三曲』を手放してしまっているので、また機会を見て調べたいと思います。