2019年8月17日土曜日

藍の生葉染めをしました。

まずは、生葉を摘み取りました。
染める布の5倍程度とのことで、絹のストール60gからすると、なんと300g必要なんだそうですが


収穫直前の藍

これだけ摘み取りました。
藍は生命力が高い植物であるというネットの情報を信じ、これからまた水やりをがんばります。


あれだけつんつるてんになるまで積んで、160g程度でした。もうこれでやります!


葉を水洗いした後、細かくハサミで刻み

ミキサーでウィーン!


ネットで濾すと、緑色の液体になります。

絹のストールをつけます
この状態で2030


絞った直後は、緑色です。


空気に当てるうちに、インディゴが酸化して、青みがかってきます



30分程度酸化させて、水で洗い流すとあら不思議!葉緑素が水に流れて、藍色になりました!



絹のストールは、ネットで頼みました。藍の生葉染めは、木綿ではダメで絹でやるんだそうです。昨日楽天のウェブサイトで見つけて頼んだら、なんと早くも今日届きました!

丹後ちりめん織元 今井織物株式会社 MAYUKO絹工房というところでした。一辺1mくらいの正方形で大きかったので、二つに切って染めました。


2019年8月5日月曜日

【ジョイントweb演奏会:大庫こずえ(長野県)・山口 翔(福岡県)】 山田流箏曲『菊水』

Facebook上で、大庫さんが『菊水』の三絃独奏の演奏を公開されていたことから、久しぶりに「web上での共演」をお願いし、今回のジョイントweb演奏会開催の運びとなりました。大庫さん、いつも本当にありがとうございます。

この曲は竹友社の「青譜」で通常通り発行されているのですが、自分が師匠にきちんとお習いしておらずに残っていた数曲のうちの一つでした。戦前は「南朝が正当」という認識が日本国民において一般的で、楠木正成は忠臣として英雄視されていたそうです。当時はよく芝居や小説、そしてこの『菊水』のように、音楽作品の題材となって人々から人気を博したのだとか。そういえば尺八においても「虚無僧の元祖は楠木正勝(正成の孫)」というような話もありました。しかし、戦後はそうした南朝正統論や楠木正成に対するシンパシーが薄れていったためか、次第に演奏機会が減少してしまったようです。

本来ならば、唄・箏本手、三絃、尺八による三曲合奏が通常の演奏形態でありますが、「箏が主」の山田流箏曲ながらあえて「唄・三絃、尺八」の合奏として仕上げてみました。山田流には、江戸の感性に合わせて、浄瑠璃など三味線音楽の要素を箏曲化して生まれたという成り立ちがあります。そういう経緯からすると、山田流箏曲を三味線を主体にした音楽として演奏してみることも、その音楽的性質からして興味深い試みであると考えました。

下合わせ期間に、大庫さんから今井慶松師のSP音源を聴かせて頂きました。昔の名人ならではの、流れるような力強い演奏が感動的で、現代人が忘れてしまった感性に浸ることができました。今井師の箏のシャレ弾きが秀逸で、ほぼベタ付けであった尺八に手を幾つか取り入れて吹いてみました。三絃と尺八だけの楽器編成であったため、こうした歴史的な手付けを学んで取り入れることは効果的であるように感じました。

また、「ジョイントweb」シリーズでは初の、カメラの切り替え(スイッチング)を取り入れてみました。独吟の箇所をはじめ、気分を変えるために適宜楽曲の切れ目などに使用してみました。

楽曲の長さも適当で、曲の展開も面白く、もっと盛んに上演されればいいのにと思った次第です。令和最初の「ジョイントweb演奏会」に、楠公の『菊水』、いかがでしょうか。


〜共演者・大庫こずえさんよりコメント〜
どうやら私は、音を重ねる器楽の合奏より、綺麗な歌より、ドラマのある歌で情景を見せる演奏が好きなようです。
それ故 多感な十代にたまたま出会った山田流箏曲を今も続けているのでしょう。
箏浄瑠璃である山田流箏曲には 古典文学を演じる曲が沢山あり、過去の名人の残された貴重な演奏を録音とはいえ改めて聞くにつけ、若い頃から実際に触れて来られた幸運を何よりも有り難く思う次第。
山口さんのお誘いにより  自分の身の内に蓄えた芸を少しでも現代に表現出来れば何よりです。



『菊水』
明治26年(1893)に、山登万和(1853〜1903)が作曲した山田流箏曲。作詞者不詳(一説に、国文学者の中村秋香とも)。山登万和は、二代山勢検校門下で、三世山登検校を名乗った。天皇親政なった明治期の世相を反映した作品を数多く作曲したことでも有名で、『須磨の嵐』『四季の詠』『松上の鶴』『近江八景』などは、今日でも取り上げられる。
この曲は『太平記』巻16「正成兵庫下向事」に取材して、「桜井の子別れ」として有名なシーンを描いている。曲名の「菊水」は、菊の花と流水を組み合わせたデザインの家紋で、楠木正成を象徴する。
建武3年(1336)、足利尊氏の京都入りを阻止するために湊川へ向かう楠木正成(1294〜1336)は、これが最期の戦となることを覚悟している。桜井宿(現在の大阪府島本町)で嫡子正行に後醍醐天皇への忠義の道を教え諭し、別れを告げる。このとき正行は数え年で11歳だったと伝えられ、父の没後も南朝側の武将として戦い、四條畷の戦で討ち死にした。唱歌「桜井の訣別」(落合直文作詞・奥山朝恭作曲、1899年刊『湊川』に初収録)でも「青葉茂れる桜井の、里のわたりの夕まぐれ〜」と愛唱され、戦前の国語や修身の教科書でも必ず扱われていた。琵琶歌、長唄、常磐津など、様々なジャンルでも題材として取り扱われている。
途中に入る合の手では、勇ましい合戦のイメージを鼓舞するような雰囲気の手付けがなされている。箏は雲井調子から六と斗を一音上げた半岩戸調子(生田流の六斗上り雲井。箏の四に三絃の一が合う)で出て、「綸旨なり」で六を下げ、「これを汝に譲るなり」で斗も下げて雲井調子。三絃は二上り〜三下り〜本調子と変化する。時代色が濃いために今日では演奏される機会が少なくなってきている。  〜『Victor ノイズレスSPアーカイヴズ 都の春/今井慶松〈I〉』ライナーノーツより〜

歌詞
その時正成、肌の守りを取り出し、是はひととせ、都に戦ひ有りし時、下し給ひし綸旨(りんし)なり、是を汝に譲るなり、我れ兎も角もなるならば、世は尊氏の世となりて、吉野の山の奥深く、叡慮を悩し給はんは、鏡に懸けて見る如し、さは去りながら正行よ、暫しの難を逃れんと、弓張月の影暗く、家名を汚すことなかれ、父が子なれば流石にも、忠義の道は兼て知る、討ち洩らされし者どもを、育み扶助し隠れ家の、吉野の川の水清く、流れ絶えせぬ菊水の、旗を再びなびかせて、敵を千里に退けて、叡慮をやすめ奉れ、ああ叡慮をやすめ奉れ