2018年10月29日月曜日

『二十四の瞳』

原作の『二十四の瞳』を読んでみました。



「読書感想文」というのは個人的にあまり好きではないのですが、尺八曲「ひとみ」が使用されたというシーンを中心に、若干所感を述べてみたいと思います。

主人公の大石先生が師範学校を出て、本村から8キロ離れた岬の村にある分教場で1年生の担任として赴任するところから物語は始まりますが、「ひとみ」のシーンはそれから18年後の最終章、世の中が戦争に突入し、その時の教え子の男子は次々に出征・戦死、大石先生自身も夫や母、3番目の子どもを戦争で失い、戦後になって何とか暮らしを立てて行くために、再び臨時教員として岬の村に赴任するんですね。そして、教え子たちの墓に参る。世の中が荒れ果てて、満足な墓石や、花を手向ける人もいない。そういう悲惨さが描かれていました。「この曲はそういう悲しさを表現しなければならない」という話がFacebook上でもありましたが、その意味がよく分かりました。

小説そのものは、書かれた時期が戦後すぐで、プロレタリア文学の要素も含まれており、作品の全ての表現や思想等に完全に共感できるかというと、それはまたちょっと違いました。自分自身教職員ではありますが、かなり「らしくない」教員だから、余計そう感じるのかもしれません。ただ、作者自身が、戦時中という激動の時代を生き抜き、肌身で感じた辛さ・悲惨さがこの作品を成り立たせているのは大いに感じられました。そして、戦前〜戦時中の、特に地方部の貧困や思想的な統制の悲惨さは、現代人である自分からして察するに余りあるものでありました。最近の戦時中を描いた映画や小説は、かなりそういう要素が薄まってきているように思います。それはもはや「戦時中」が確実に風化してきていて、戦時中のことを実感を伴って分かっていない世代が作品を生み出しているからでしょう。そういう意味で、『二十四の瞳』のような、戦時中を生きた人自身の「生の声」が聞ける作品に接するというのは、大切なことかもしれないと思いました。


話題がガラッと変わりますが、最近、15年来の「活字離れ」からようやく脱出?しました。僕の活字離れが始まったのは、大学卒業後、パソコンやネットにハマってからです。パソコンそのものの楽しさとともに、ネットは「何でも情報を瞬時に得られる」かのような「万能感」を僕に感じさせました。かつて読書していたような時間帯も、全てMac(のちにiPhone)に向かうようになりました。

しかし、以前も話題にしましたが、ネットって「何でも調べられ」そうでいて、結局は自分の好みで見るページが決まるので、毎回似たようなページをグルグルしてるんですよね。で、暇ができたり、なんか気分を変えたりしたくなると、またスマホで似たようなページをグルグルしてしまう。その結果、脳内の使用部分が固着してくる…。僕の場合はそういう循環になりがちです。

それに対して、やはり活字の印刷物というのは手触りや見た目にもアナログな質感があり、そして本を読んでいる最中も「データ」「情報」としてだけでなく、「文章を味わえる」感が強いような気がします。人間の五感に直接訴えるものが強いんですかね。そういう要素は、クルマのエンジンをかけるとクランクシャフトやカム、ギアなんかが駆動して伝わってくる振動や音、楽器を演奏する時の楽器の材質からダイレクトに空気の振動に変換される感覚なんかとも似ている気がします。また、文学作品を通じて、自分自身でネット検索するのとはまた全然違った、筆者の思想や教養に触れることができ、読み終わった時の自分の中の蓄積の質が異なっているような気がします。最近では漱石の『猫』なんかでそういう感触がありました。

iPhone自体も好きで、ネットをしなくなった訳ではないんですが、最近はなるべく「スマホをしたくなったら読書」にしています。

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