【転菅垣(Koro Sugagaki)山口 翔】
『琴古手帳』の「当流尺八曲目」によれば、横浜の一月寺末寺頭、青木山西向寺の本則野田意悦(虚道)より初世黒沢琴古が伝授された曲であるとのことです。
この曲も秋田菅垣と同様、比較的拍子がはっきりしています。大きな特徴として、曲の前半部分と後半部分がピッタリ合奏できるように作曲されていることが挙げられます。
後半部分は「コロコロ」の手を、地のように繰り返しているのが印象的で、曲名との関連を想像させます。
前回「10分で琴古流本曲シリーズ」におきましては、この前半と後半の吹合せを多重録画で再現しましたが、今回は最初から最後まで全曲通しで演奏してみました。
平成30年 10月29日撮影
撮影機材:iPhone 8
2018年10月29日月曜日
『二十四の瞳』
原作の『二十四の瞳』を読んでみました。
「読書感想文」というのは個人的にあまり好きではないのですが、尺八曲「ひとみ」が使用されたというシーンを中心に、若干所感を述べてみたいと思います。
主人公の大石先生が師範学校を出て、本村から8キロ離れた岬の村にある分教場で1年生の担任として赴任するところから物語は始まりますが、「ひとみ」のシーンはそれから18年後の最終章、世の中が戦争に突入し、その時の教え子の男子は次々に出征・戦死、大石先生自身も夫や母、3番目の子どもを戦争で失い、戦後になって何とか暮らしを立てて行くために、再び臨時教員として岬の村に赴任するんですね。そして、教え子たちの墓に参る。世の中が荒れ果てて、満足な墓石や、花を手向ける人もいない。そういう悲惨さが描かれていました。「この曲はそういう悲しさを表現しなければならない」という話がFacebook上でもありましたが、その意味がよく分かりました。
小説そのものは、書かれた時期が戦後すぐで、プロレタリア文学の要素も含まれており、作品の全ての表現や思想等に完全に共感できるかというと、それはまたちょっと違いました。自分自身教職員ではありますが、かなり「らしくない」教員だから、余計そう感じるのかもしれません。ただ、作者自身が、戦時中という激動の時代を生き抜き、肌身で感じた辛さ・悲惨さがこの作品を成り立たせているのは大いに感じられました。そして、戦前〜戦時中の、特に地方部の貧困や思想的な統制の悲惨さは、現代人である自分からして察するに余りあるものでありました。最近の戦時中を描いた映画や小説は、かなりそういう要素が薄まってきているように思います。それはもはや「戦時中」が確実に風化してきていて、戦時中のことを実感を伴って分かっていない世代が作品を生み出しているからでしょう。そういう意味で、『二十四の瞳』のような、戦時中を生きた人自身の「生の声」が聞ける作品に接するというのは、大切なことかもしれないと思いました。
話題がガラッと変わりますが、最近、15年来の「活字離れ」からようやく脱出?しました。僕の活字離れが始まったのは、大学卒業後、パソコンやネットにハマってからです。パソコンそのものの楽しさとともに、ネットは「何でも情報を瞬時に得られる」かのような「万能感」を僕に感じさせました。かつて読書していたような時間帯も、全てMac(のちにiPhone)に向かうようになりました。
しかし、以前も話題にしましたが、ネットって「何でも調べられ」そうでいて、結局は自分の好みで見るページが決まるので、毎回似たようなページをグルグルしてるんですよね。で、暇ができたり、なんか気分を変えたりしたくなると、またスマホで似たようなページをグルグルしてしまう。その結果、脳内の使用部分が固着してくる…。僕の場合はそういう循環になりがちです。
それに対して、やはり活字の印刷物というのは手触りや見た目にもアナログな質感があり、そして本を読んでいる最中も「データ」「情報」としてだけでなく、「文章を味わえる」感が強いような気がします。人間の五感に直接訴えるものが強いんですかね。そういう要素は、クルマのエンジンをかけるとクランクシャフトやカム、ギアなんかが駆動して伝わってくる振動や音、楽器を演奏する時の楽器の材質からダイレクトに空気の振動に変換される感覚なんかとも似ている気がします。また、文学作品を通じて、自分自身でネット検索するのとはまた全然違った、筆者の思想や教養に触れることができ、読み終わった時の自分の中の蓄積の質が異なっているような気がします。最近では漱石の『猫』なんかでそういう感触がありました。
iPhone自体も好きで、ネットをしなくなった訳ではないんですが、最近はなるべく「スマホをしたくなったら読書」にしています。
「読書感想文」というのは個人的にあまり好きではないのですが、尺八曲「ひとみ」が使用されたというシーンを中心に、若干所感を述べてみたいと思います。
主人公の大石先生が師範学校を出て、本村から8キロ離れた岬の村にある分教場で1年生の担任として赴任するところから物語は始まりますが、「ひとみ」のシーンはそれから18年後の最終章、世の中が戦争に突入し、その時の教え子の男子は次々に出征・戦死、大石先生自身も夫や母、3番目の子どもを戦争で失い、戦後になって何とか暮らしを立てて行くために、再び臨時教員として岬の村に赴任するんですね。そして、教え子たちの墓に参る。世の中が荒れ果てて、満足な墓石や、花を手向ける人もいない。そういう悲惨さが描かれていました。「この曲はそういう悲しさを表現しなければならない」という話がFacebook上でもありましたが、その意味がよく分かりました。
小説そのものは、書かれた時期が戦後すぐで、プロレタリア文学の要素も含まれており、作品の全ての表現や思想等に完全に共感できるかというと、それはまたちょっと違いました。自分自身教職員ではありますが、かなり「らしくない」教員だから、余計そう感じるのかもしれません。ただ、作者自身が、戦時中という激動の時代を生き抜き、肌身で感じた辛さ・悲惨さがこの作品を成り立たせているのは大いに感じられました。そして、戦前〜戦時中の、特に地方部の貧困や思想的な統制の悲惨さは、現代人である自分からして察するに余りあるものでありました。最近の戦時中を描いた映画や小説は、かなりそういう要素が薄まってきているように思います。それはもはや「戦時中」が確実に風化してきていて、戦時中のことを実感を伴って分かっていない世代が作品を生み出しているからでしょう。そういう意味で、『二十四の瞳』のような、戦時中を生きた人自身の「生の声」が聞ける作品に接するというのは、大切なことかもしれないと思いました。
話題がガラッと変わりますが、最近、15年来の「活字離れ」からようやく脱出?しました。僕の活字離れが始まったのは、大学卒業後、パソコンやネットにハマってからです。パソコンそのものの楽しさとともに、ネットは「何でも情報を瞬時に得られる」かのような「万能感」を僕に感じさせました。かつて読書していたような時間帯も、全てMac(のちにiPhone)に向かうようになりました。
しかし、以前も話題にしましたが、ネットって「何でも調べられ」そうでいて、結局は自分の好みで見るページが決まるので、毎回似たようなページをグルグルしてるんですよね。で、暇ができたり、なんか気分を変えたりしたくなると、またスマホで似たようなページをグルグルしてしまう。その結果、脳内の使用部分が固着してくる…。僕の場合はそういう循環になりがちです。
それに対して、やはり活字の印刷物というのは手触りや見た目にもアナログな質感があり、そして本を読んでいる最中も「データ」「情報」としてだけでなく、「文章を味わえる」感が強いような気がします。人間の五感に直接訴えるものが強いんですかね。そういう要素は、クルマのエンジンをかけるとクランクシャフトやカム、ギアなんかが駆動して伝わってくる振動や音、楽器を演奏する時の楽器の材質からダイレクトに空気の振動に変換される感覚なんかとも似ている気がします。また、文学作品を通じて、自分自身でネット検索するのとはまた全然違った、筆者の思想や教養に触れることができ、読み終わった時の自分の中の蓄積の質が異なっているような気がします。最近では漱石の『猫』なんかでそういう感触がありました。
iPhone自体も好きで、ネットをしなくなった訳ではないんですが、最近はなるべく「スマホをしたくなったら読書」にしています。
2018年10月15日月曜日
秋田菅垣
【秋田菅垣(Akita Sugagaki)山口 翔】
『琴古手帳』の「当流尺八曲目」によれば、秋田にて、梅翁子から初代黒沢琴古が伝授された曲であるとのことです。
「すががき」とは、古来、和琴や雅楽の箏などの奏法用語だったものが、17世紀中頃から箏、三味線、一節切など、楽器の垣根を越えた共通の要素を持つ楽曲名となったもの。
「六段の調」も、昔は「六段菅垣」と呼ばれていたそうで、この「すががき」が原曲になって多種多様な楽器の楽曲が成立・伝承されていったようです。
琴古流に伝わる「秋田菅垣」と箏曲の「六段」は、元をたどれば先祖が同じ、とも言えるわけです。
拍節が明瞭ではない曲が大半の尺八本曲の中にあって、「○○菅垣」というタイトルを持つ曲は、比較的拍子がはっきりしているものが多く、糸の曲が元になっていることを伺わせます。
平成30年 10月14日撮影
撮影機材:iPhone 8
『琴古手帳』の「当流尺八曲目」によれば、秋田にて、梅翁子から初代黒沢琴古が伝授された曲であるとのことです。
「すががき」とは、古来、和琴や雅楽の箏などの奏法用語だったものが、17世紀中頃から箏、三味線、一節切など、楽器の垣根を越えた共通の要素を持つ楽曲名となったもの。
「六段の調」も、昔は「六段菅垣」と呼ばれていたそうで、この「すががき」が原曲になって多種多様な楽器の楽曲が成立・伝承されていったようです。
琴古流に伝わる「秋田菅垣」と箏曲の「六段」は、元をたどれば先祖が同じ、とも言えるわけです。
拍節が明瞭ではない曲が大半の尺八本曲の中にあって、「○○菅垣」というタイトルを持つ曲は、比較的拍子がはっきりしているものが多く、糸の曲が元になっていることを伺わせます。
平成30年 10月14日撮影
撮影機材:iPhone 8
堀井小次朗作曲「ひとみ」(映画『二十四の瞳』挿入曲)
実はその前日、スペインの尺八奏者、 Rodrigo Rodriguez さんが投稿された、「二十四の瞳」の演奏動画を拝見したのです。
連続して翌日の唐言さんの投稿で、ご縁を感じ、まずは琴古譜を作成しました。
譜面作成にあたっては、関西在住のとある琴古流尺八家から資料を見せて頂きました。この場をお借りして御礼申し上げます。さらに、その後も、Facebook上でたくさんの方が、ご自身の習われた譜面を公開して下さったり、曲に対する熱いコメントを書き込んで下さったりしました。僕の知らなかったこの曲が、こんなにもたくさんの尺八奏者に愛されていたということに、驚きました。
というのも「二十四の瞳」は、日本の有名な映画の一つだといえると思いますが、その音楽に尺八が使われていたこと、そして作曲が堀井小次朗師であること自体を初めて知ったのです。
しかも、それを知ったのが、海外のお二人の尺八家のおかげだというのも、とても印象深いことでした。
七孔尺八らしい音の滑らかなつながりや、民謡のような装飾音の入り方が、僕としてはとても新鮮です(自分は5孔で演奏しましたが)。「尺八本曲」「地歌箏曲」以外に、中々「日本の魂」を感じることができる尺八独奏曲を見つけることができなかった自分にとって、この楽曲はとてもインパクトがある作品でした。
琴古流にはない、流れるような連続音や、転ぶような装飾音の連続が印象的です。
いつも同じところばかり使っている脳の回路が、新鮮な刺激を受けています。
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