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2019年4月29日月曜日

平成最後のひとりごと…

31年間続いた平成という時代が終わろうとしています。平成元年は、自分は7歳。小学1年生の冬に昭和天皇が崩御され、元号が改まったのだと考えると、確かにかなり昔のことのように思い出されます。大学に入学したのは平成12年、琴古流を本格的に学び始めたのは平成の半ばだったわけですね。当時はまだまだ青譜も楽器屋さん巡りをすれば新品を揃えることが可能で、減ってきたとはいえ地方部でも温習会等も盛んであり、まだまだ「日本版パトロン制としての家元制度」が健在だった時代だったんだなぁと思い返されます。ただ、少しずつ製管師の方や楽器屋さんなどは危機感を感じ始めておられたようで、我々奏者よりも一足先に未来の景色が予見されていたのでしょう。「本気で盛んにしようとしてるわけ?」といった意味のことを尋ねられたことがあります。僕はまだその時には「『ホンモノ』さえちゃんとやってれば、お客さんやお弟子さんは自然と付いてくる」と固く信じ切っていました。


僕が「やはり、この体制ではもはやダメなんだ…」と悟ったのは、関西から九州へ帰郷し、僻地の勤務校や地方の暮らしでのさまざまな体験や見聞を経た、平成29年ごろからです。そういう結論を出さざるを得ない、これからの日本の姿。少子高齢化に伴う凄まじい人口減。地方部の文化的活動の低迷ぶり。こうした現実を目の当たりにし、既存の提携関係や囲い込みの中でのみ残存している『伝統芸能』という姿は、不健全なものであるということにようやく気がついたのです。それは、「日本版パトロン制としての家元制度」の存続自体を目的にしてしまっている。そのために、永遠なる「お勉強させて頂きます」の繰り返し。本当にそれで人々が幸せになって行けるのか。誰がそれで喜んでいるのか…。


芸系の正当性云々や芸のあるべき継承方法、「私はまだまだ未熟だと気がついた」的な自覚…、そうしたものは、僕自身が平成の後半期、15年程度ドップリ浸かっていた価値観であり、その言っている意味はわかるつもりです。でも、はっきり言ってそんなこと言ってるような状況ではないんじゃないですか?音楽なんだから、演奏したり聴いたりする人自身が、真に幸福を感じられるものでないと、この先激変する時代の価値観の中で生き延びていくはずがないでしょう。「よく良さが分かんないんだけど、なんか上の人が良いって言ってるから良いんだろう」とかで、痩せ我慢して分かってるフリをしたりとか、意味ないと思います。「残月は三回生まれ変わってようやく弾けるようになれる」とかの話。もちろん、当時の名人が長い修練を重ねた上での嘘偽りのない本当の実感だったのでしょう。しかし、この現代にそうしたエピソードをステイタス的に語ってみて、音楽が良くなるのでしょうか。



僕は尺八本曲や地歌箏曲というのは、本当に素晴らしい音楽だと思いますし、好きな曲は本当に好きです。ただ、「自分はまだまだ修行が足りません」とか「お勉強させて頂きます」とかは、もう言ったり考えたりしないつもりです。傲慢になりたい訳ではありませんし、日々の練習という努力はずっと続けています。ただ、根本姿勢が「音楽を楽しんで、その結果幸せになる」でないと、せっかくの素晴らしい『鹿の遠音』も『八重衣』も、ちっとも輝かないと思うんですよね。自分自身が幸せを実感するために、尺八という楽器や、演奏する楽曲と向き合っていきたいと思います。


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