2021年4月18日日曜日

スーツ通勤にさよならを…

 兵庫県から福岡に戻って以来、9年間続けてきた「毎日背広でお仕事」を、この度やめてみました。

兵庫県尼崎市では平服で仕事をしていたのですが、帰福して毎日背広(この言い方からして昭和ですよね…、要するに、スーツ)にチェンジした理由は、オンオフの気持ちを服装でしていた面とか、まあ姿だけは?ちゃんとしているように見えるとか、参観日や式典などだけ服装や態度を変えるのがイヤでそれだったら毎日「仕事着」としてスーツにしたとか、色々理由がありました。「ジーンズとウエストポーチ」みたいなのも嫌いでしたし、特に前任校は児童が制服だったのでこちらもきちんとしたかったのもありました。
…まあ、そんなこんなで9年間が過ぎたのですが、問題は「結構すぐ破れる」ということ。小学校教員はあれこれ動き回るし、膝をついて拭き掃除するし、まずズボンからダメになって行くんですよね。「洗えるスーツ」を買っていたんですが、2本セットのズボンが両方ダメになって、ズボンだけ買い足した結果、途中から上下のコンビネーションが違うものになっていました。上のボタンもよく取れて、生徒が給食食べてる間に裁縫道具出して縫っていました。最近はそでの先端もほつれてきて…見るも無惨な姿に…
で、しかも、服としていいものならともかく、ペットボトルを再生した繊維で、なんでこんなに高いんだろう、みたいなですね。しかも、結構身体を制限して固めてしまう形状。
で、実は妻からの説得もあって、「オールmont-bell」で揃え、儀式的行事などの日以外は全てmont-bell服にしています。mont-bellは値段は結構するのですが、繊維が高性能な上に強靭で、数年使っても全然やぶれが来ないし、万が一亀裂が入っても破れが広がらないんですよね。しかも、透湿性が高く、速乾性で、着心地も良く動きやすい。一日中働いた後に、疲れが全然違います。もう、40歳目前で、疲労の蓄積や体調管理など気を遣った方が良さそうですし。最終的にコストパフォーマンスが良いのではないかと。
僕自身「背広で仕事」に愛着があったのは事実で、それを変えるのにはかなりの抵抗感もあったのですが、折角の転勤というのも何か変わるのに良いきっかけだと相当思い切ってやってみましたが、どうやらいい選択だったようです。スーツ一式は急な必要に迫られた時用に、学校のロッカーに置いています。



2021年4月8日木曜日

クラッチペダルのゴム交換完了

 ペダルのゴムカバーが届いたので、付け替えました!

クラッチペダルだけ、新しい…
部品代は280円也でした。







2021年3月31日水曜日

伊藤かずえさんのシーマ

 遂にレストアなさるそうです。

https://autoc-one.jp/news/5010081/?fbclid=IwAR0U9KLjCTKitrsVt_gpic1EIhD69bhkUaYUQF-LORqx0cCNXLziiLZ15vs

僕のレガシィも、長く乗り続けて、いつかキレイにしたい…。ちなみに僕のは現在24万8000キロです。



岐阜市に「不登校児専門公立中」開校

 「…大人は、時間割も、教室も、担任の先生も、9教科も、よかれと思って子どもたちに与えます。子どもたちに必要だと思うから与えるのです。

でもこれを子どもたち自身が自分で選べるチャンスというのは、どうすれば作ることができるのか。みんな同じように同じペースで学ばないといけない、これができることが、大人になるために必要だと大人は考えます。そのためには我慢をしないといけないし、耐えなければならない。

しかし、本当にそうでしょうか。我慢して、耐えることだけが、子どもたちに必要なことで、これを6・3・3の12年間、さらに4年間足して16年間耐え続けられた人だけが大人になれるのでしょうか。
私は、そうでない場所、を作ることが大事だと思います。…」


公立の中学で、このようなコンセプト・スタンスの学校が開校されたというのは、実に注目すべきだと思います。今のシステムは行き詰まりを見せていると、常日頃感じます。固定観念を取り払い、広い視点で判断し、仕事をしていける新年度を目指して行きたいです。

2021年3月14日日曜日

クラッチペダルのゴム

 現在、レガシィの走行距離24万7900あたりですが、クラッチペダルのゴムが削れて外れかけて来ました。これで2回目です。クラッチはちょっと重め?のクルマなので、結構力入れて踏みますもんね…

確かゴム部分が数百円くらいの部品だったような気がするので、今度スバルで変えてもらおうと思います。



2021年3月3日水曜日

小5国語の教科書、新旧比較





左は平成8年版。僕が子どもの頃に使っていたのは、ちょうどこんな感じでした。小さくて薄くて軽いし、物語文の後の「勉強」的な感じのところはおまけ程度にちょろっとでした。こんなもんでしたよね。





右は令和2年版。横の長さはA4、縦の長さはB 5という、変則的な横広サイズ(他教科もこのサイズで、ランドセルの幅がA4でないと入らない…)で、太さが極太!!めちゃ重いです。


なんと、以前のように上下に分かれていない通年もの。また、やたらめったらカラーページで、あれこれ「ユニバーサルデザイン」てんこ盛りで、子どもの顔に吹き出しが書いてあったり、話し合いの模様が再現されてあったり…、と至れり尽くせり?もう、やりすぎじゃない??


僕は、ユニバーサルデザインのやりすぎは、脳を退化させるのではないかと考えています。考えたり間違ったりする機会が失われて、「ねらいどおり」の思考しか産まないような感じというか。デザインした側の「意図」の通りにしかなりようが無いようにしてるというか。所謂「研究授業」も「教師の意図通り」に子どもが理解・発表しないと「失敗」になりますしね…




こういう訳の分からないのも、所詮「流行」なので、そのうち廃れるでしょう。

2021年2月21日日曜日

熊本の製管師、利道道仁(りどうどうじん)師について

先日、欧州のFacebookグループ「Shakuhachi Makers Hanko」というコミュニティに参加させて頂く機会を得ました。これは、尺八製管師の焼き印の写真を持ち寄り、情報交換しようという趣旨でしたので、僕も吹料の利道道仁管の焼印や全体写真、自分の知っている範囲内での情報などを提供させて頂きました。そんななかで、欧州でも道仁管を持っておられる方がおられることも知り、楽しく交流させて頂きました。


そこで文章作成中に気付いたのですが、この道仁管も受け取って吹き始めてから、はや9年、利道さんが亡くなってからも5年以上が経過し、自分ももうすぐ40と考えると、これ以上記憶が薄らいで行く前に忘備録としてホームページ、ブログ、Facebook等に詳細を記録しておく必要性を感じ、今回ペンを取った次第です。すでに記憶が曖昧な所がありますが




利道道仁(1953?~2015.3

・本名、則行

・熊本県阿蘇郡高森町生まれ。

・父君は竹刀を作る職人だったという。若かりし頃、竹材を採取していた阿蘇で「120年に一度咲き、その後は枯れる」と言われた竹の花が咲き、そして枯れてしまったため、真竹を原材料とする竹刀の制作継続が難しくなった。別の職を求めて大阪へ。

・大阪で尺八と出会う。竹刀との「真竹」繋がりで興味を持たれたとのこと。内部構造を調べるため、試しに縦に割って観察の後接着したところ、音が出なくなってしまったという。その面白さに興味を惹かれ、尺八作りの道を志す。

・当時、大阪は玉井竹仙師の全盛期で、沢山の弟子も抱え、大量に生産していた時期だった。利道師は玉井竹仙の門人となったわけではないが、その作りを参考にして製管技術を会得したとのこと。

・熊本に帰り、工房を開く。当時は民謡尺八も全盛期だったため、尺寸の違う大量の尺八を必要とする民謡の尺八奏者らが購入していた模様。

・一時期、永廣真山師の下請けもやっていたとのこと(同師の受注が莫大だった頃)。

・吹奏の方は、阿蘇の美風会(吉田晴風系統の社中)で習ったため、琴古流の演奏を行った。ただし、人前ではあがり症のため、舞台等は辞退していた。製管は琴古管も都山管も両方行った。

・尺八は標準管、本曲用、新曲用の三種類を制作。本曲用は標準管に比べて内径が太め、新曲用は細めとのこと。自分は本曲用をオーダーしましたが、本曲の技法には適する代わりに、細かいパッセージのプレイアビリティには劣ると念押しされました。

2015年3月没。享年62歳。


About Mr.利道道仁(Ridoh Dojin

19532015

Born in Kumamoto Aso Takamori.

His father is “Shinai” Kendo bamboo sword craftsman.

In his youth, bamboo blossomed, and later withered. So he tried to go to another profession.

He went to Osaka, and wet Shakuhachi.

At that time, Tamai Chikusen(玉井竹仙)was working, and teaching to lots of students. He wasn’t Chikusen’s student, but referred to him and his students.

He went back to Kumamoto, and opened his workshop.

For a while, he made Shakuhachi as Nagahiro Shinzan(永廣真山)‘s subcontractor, I heard.

He learned Shakuhachi in Bifukai(美風会)which is group of Yoshida Seifu(吉田晴風), so his play style is Kinko. He made both Kinko and Tozan instruments.

He died at the age of 62, in March 2015.